阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅳ ~ボランティアが来てくれた

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ボランティアチーム

 混乱が続く震災直後の学校。本山南小学校では早い時期から何人かの避難者の方々が自分から名乗り出て、避難所の運営に力をつくしてくれていました。今では共助と呼ばれます。自分も大きな被害にあいながら、みんなのために働くなど、並みたいていのことではありません。立派な方々でした。

そうした避難者の自治に加え、震災5日目ぐらいから一人また一人と全国各地からボランティアがやってきてくれました。1日~数日間を避難所のために提供して下さる方もいれば、泊まり込みで何日も何週間も踏ん張ってくださった方もおられます。「Ⅲ」の記事に書いた寄付と同じく、時間・日にちの長さには関係なく、助けて下さったすべての方々の温かいお気持ちには感謝しています

元々は知り合だったわけでもない「寄せ集めのボランティアチーム」です。年齢も住んでいる場所も、職業も様々です。選挙で選ばれたわけでもなく、給料をもらって働いているわけでもなありません。ほとんどが震災の後でたまたま本山南小学校(避難所)に来て知り合った」という関係です。神戸市に対しても避難者に対しても何の責任もないのに矢面に立って避難所を運営して下さり、本当によくしてくれました。

はじめのうちは、寄せ集めだった人たちだったはずなのに、だんだん、日に日にボランティアチームの活躍はまとまりが出てきました。ものすごい量の仕事をこなしながら(きつい仕事も多かったはずです)、チームワークが生まれてきました。

朝昼晩の食事や救援物資が次々に届き始めると、これらを整理して、学校に避難している方々に平等に分けるという作業は大混乱となりました。この作業をボランティアの人たちがしてくれたのは、本当に助かりました。住民の数と救援物資の数が違うことも多く、平等に配れないこと(そんなの無理)に対してはかなりたくさんの文句を言われたそうです。余った食べ物はもったいないからと、国道まで運んで信号待ちの車に配ってあげたそうです。

学校の門番をしてくれたり、外に出て地域の見回りまでしてくれたり、鳴りっぱなしの電話(クレームや問い合わせ)に対応してくれたり、避難者との相談に対応してくれたりと、大活躍をしてくれました。「プロのボランティア」という言い方はおかしいのかもしれませんが、本当にプロ並みの働きぶりでした(※プロボノという言葉はあるそうですが、それともちょっと違います)。

28日には運動場の真ん中にアメリカから送られてきた大きなテントが建てられました。玉ねぎの形をしていたことからそれは「たまねぎテント」と呼ばれるようになり、3月末までそこに救援物資が保管されるようになりました。同時にそこは、ボランティアが寝起きする場所となりました。

本山南小学校でのボランティアの記録は、1年後、文集としてまとめられました。文集の名前は「玉ねぎテント」。30年を経て、震災から約70日間のボランティアの方々の文章を読み直してみると、彼らが長い長い復興への道のりの最初の部分を導いてくれたことがよく分かります。一つ一つについて取り上げはじめると、きりがないほどの仕事をしてくれていました。

女子高生ボランティア

ボランティアに関する話もたくさんあるのですが、その中でどうしても1つだけ、エピソード残しておこうと思います。

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震災後1週間ほどたった頃、ボランティアをやりたいという女子高生が学校を訪ねてきました。小川さんと言います。小川さんは「今時の女子高生ファッション」を決めてさっそうと現れました。当時の被災者は風呂にも入れず着の身着のままで過ごしていたのに、なんでこんなにおしゃれな恰好をしてやってくるのか、少し違和感がありました。でも深刻な労働力不足の状況です。助けてくれるなら誰でもありがたく、大歓迎でした。

私と苗字が同じだったので「ぼくも小川と言うねん」と、親しみを込めて声をかけたのですが、なんだかつれない返事です。どうやら教師や学校のことをあまりよく思っていないのかもしれません。正直、ティーンエイジャー女子はコミュニケーションが取りづらくて私が苦手とする年代です。

小川さんは何か少し構えているように見えました。せっかく被災地に来てくれたのに、いまひとつボランティアチームとも距離があるみたいだし、動きも悪いように見えました。芦屋のお嬢さん」と言ううわさもあり、嬢さんが育ちの高校生がこんなボロボロの避難所で寝泊まりしてやっていけるのだろうか。私は「この子、本当に大丈夫なのかなぁ」という気持ちで見ていました。

ある日、私が放送室の壊れた機械を修理していた時に、小川さんが被災者のオジサンと一緒に放送室に入ってきました。オジサンはちょっといかつい感じで、小川さんの事をとても気に入っている様子です。すぐにオジサンと仲良くなってしまうなんて、さすが平成の女子高生。半ば感心し、半ばあきれていました。

オジサンは、

「この子、高校を卒業して大学に進学することに迷いがあるらしいわ。親に言われるがままに生きてきた今までの自分がいやになっているらしいねん。先生、相談に乗ってやってや。」

と、私に話しかけてきます。修理する手を止めずに、私は少し考えていました。

多分、小川さんは迷っているのだろう。十代は迷いが多い時期だ。自分も十代は迷い続けていました。いまだに迷う事ばかりで、確信をもって生きているわけでもない。自分は教員という立場なんだから、本来なら彼女の事情をじっくり聞いてあげて、いっしょに考えてあげるべきだろう。そして、「高校を卒業して大学に進学するところぐらいまでは親の言う事を聞いて、その後で先のことを決めるのがいいんじゃないかな」という無難な結論に持って行ってあげるのがいいのだろう・・・

そんな思いを巡らしはしたのですが、私が小川さんにかけた言葉はたしか、

「自分の思ったようにするのが一番なんじゃない?」

といった内容でした。相談しに来た相手に「自分で考えな」というのはけっこうひどい回答です。やんわりと言いましたが、突き放したわけです。

当時は震災によって自分で考えることを迫られる日々でした。日常の当たり前が壊され、自分で考えて、自分で決めて、自分で動くしかない日々が続きました。

怖くても壊れた家に住み続けるのか、学校に避難するのか、神戸を離れるのか・・・。誰に頼って助けを求めるのか。誰を助けるのか、助けないのか。ずっと泣いて、なげいているのか、そろそろ立ち上がるのか・・・。

あの頃は誰もが日々、判断・決断を迫られていました。普段ならもっと丁寧に小川さんに寄り添ったと思います。でも、この非常時に高校生が被災地に泊まり込みで来るところまで意を決しているのです。私があえて「先生っぽい無難な答え」を言わないこと、親切にしないことで答えが見えてくるかもしれないという期待もありました。

・・・数日後。ふと小川さんを見かけた時、彼女はずいぶん変化したように見えました。あいさつはさわやか、動きやすい服を着ていて、誰にでも声をかけながらいそいそと働いていました。被災者に笑顔で寄り添い、自分から話しかけています。とても高校生には見えない、頼もしく成長した「プロのボランティア」のような姿がそこにありました。おそらくこの被災地でたくさんの経験をし、たくさんの人と話をして、悩んで、考えて、成長したくれたのでしょう。ボランティアの活動にはけっこう辛くてしんどい場面も多かったそうです。

325日、春の訪れと共にボランティアチームは解散することになりました。校庭の真ん中に建てられた大きなテントで寝泊まりしながら被災地の学校を支えてくれたボランティアの方々。助けられたのは私たちなのに、口々に「ありがとうございました」と言いながら去って行かれました。その中には小川さんの姿も。本当に成長したよなぁ。

小川さん、ありがとうね。

ボランティア元年

阪神淡路大震災に際して遠方からも被災地を応援しに来てくれるボランティアが続出してことで、1995年は「ボランティア元年」と言われることもあります。

一方、当時の世相はというと。「一億総中流化」からバブル経済を経て、昭和の終盤は「内輪の利益」や「刹那的な享楽」や「勝ち馬に乗ること」を求めるムードが強くなってを求めるムードが強くなっていたように思います。内輪で楽しくしていればいい、内輪でない人にまで優しくするなんて無駄、今が楽しく面白ければいい・・・といった価値観に押され、子供たちに「正しさ」「まじめさ」を求める学校の立ち位置はどんどん難しくなってゆきます。

中学校の校内暴力がひと段落した「1990年の前半」が過ぎたあたりから小学校は学級崩壊に悩ませる時代に入っていきます。

学級崩壊という悪夢 ~いったい何なのか、どうやって立て直すのか | EDUPEDIA

何だかすさんだ世相であった時代に、ボランティアや寄付による被災地支援で多くの方々の善意にふれたことは、感謝の気持ちと共に「驚き・不思議な気持ち」もありました。こんなに多くの人たちが神戸を助けてくれるなんて。仕事を休んでまで来てくださった方もおられました。また、ボランティアの中には若い方がかなりいました。「日本の若者にも優しいところがある、捨てたものではない」と思いました。

ボランティアや寄付をして下さった方々に対して、十分なお礼を言う機会を持てなかったのはとても気になっています。「感謝しております」「ありがとうございました」と頭を下げることの他に、私たちにできることもありませんでした。一人一人に手紙を書けるような人数でもなかったですし・・・。
「教師としての仕事を全うするという形で社会に恩返しできれば」という気持ちでその後を頑張ることにしました。

たくさんの「愛」や「善意」いただいた事で、教師として子供たちの中に「愛」や「善意」を育んでいかなければいけないという想いも強くなりました。

ボランティアの皆さん、本当にありがとうございました。

下の写真は震災から1年たった時期に本山南小学校の子供たちと作ったありがとうのメッセージです。鳥には子供たちの感謝の言葉が書かれています。

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