あれから30年・・・
1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災から30年になります(一連の記事を書いている現在は、2025年1月の初めです)。都市直下型の大地震と言う未曽有の災害によって多くの方々が犠牲になられたことについて、改めて深い祈りをささげたいと思い、この文章を書いています。
震災当時、私は神戸市立本山南小学校で5年生の担任を務めていました。本山南小学校の児童は激震地の東灘区であったにもかかわらず、奇跡的に一人も児童が亡くなりませんでした。亡くなった児童はいなかったものの、受けたダメージ・失ったものはとてつもなく大きいです。
元々、私は神戸市に住んでいましたが、震災当時は結婚して大阪市に住んでいました。大阪でもものすごい揺れを感じました。それでも神戸市内の揺れに比べると被害はそれほど大きいとは言えませんでした。朝7時頃には電力が復旧していたように思います(多分・・・震災発生から1週間ぐらいは時間の感覚を失っていました)。電話はつながらず、学校(激震地の東灘区)にかけても実家(大火災が発生した長田区、全壊)にかけてもなかなか出てくれません。電車も止まっています。何だ、、、これは、、、、、、
その時点では「大阪で起きた地震のせい」で自分たち大阪の人が被害にあっているのだと考えていました。
つけっぱなしのテレビから、徐々に被害の深刻さが報道されていきます。最初の報道はTVカメラが大阪駅の被害を映し出しており、それを見た時点では「やっぱり、大阪で地震があったんだ」と思わされました。
そのうち、大阪から神戸方面に向かって飛んだヘリコプターによって被害状況が東から西へと明らかになっていきます。驚くべきライブ映像が流され始めました。映し出されていく「東灘区の高速道路の倒壊」「長田区の大火災」に青ざめながら叫びました。
「えっ?えぇぇぇぇぇ!!」
優先順位の混乱
何度も何度も電話してやっと学校と電話がつながりました。校長は「お前、来たらあかん。来るな。地獄や。」と言います。訳が分からなくて「いや・・・でも・・・電車は動いてないんですけど・・・。でも、何とかして行きます」と私がぐたぐた話していると、校長はすぐに電話を切ってしまいました。
多分もう8時を過ぎて遅刻確定なので「何をしとんじゃ!早く来い!」と叱られるのかと思っていましたが、校長の意外な言葉によほど事態は深刻なのだろうという事が伝わってきます。どうやら想像をはるかに超えた事態のようです。後で考えると、校長は私一人が来たところで変わるような情勢ではないと考えたのでしょう。私が大混乱に巻き込まれてはかわいそうだという優しい判断もあったのだと思います。
その後、テレビが映し出し始めた上空からの画像はまさに地獄でした。
しばらくして実家からも電話が入ってきました。その時の実家の電話はがれきの下です。公衆電話からです。電話は30秒程度で切れてしまいます。次にかかってくるまで30分ぐらいは間が空きます。「家がぺちゃんこや」「火が燃え広がっている」「命は助かった」「今かけている公衆電話にも火の手が迫っている。もう燃えてしまう。」とぎれとぎれに、入ってくる情報に想像が追いつきません。
約15秒間と言われる地震のせいで街が壊滅状態となると同時に、電気や電話がストップしたことによって阪神淡路地域の人々は深刻な情報不足に陥っていました。壊れた街の渦中にいた人たちには目に見える範囲の状況がわかるだけで、全体像がどうなっているのか見当もつきませんでした。まさに、大パニックです。
「今やるべきことは何?」「何が正しくて何が間違いなの?」
同時に複数の判断を次から次へと急がされます。何が優先順位なのかを判断できない状態に陥りました。特に消防関係者や医療関係者はとてもつらい判断を迫られたと聞きます。
私は車で駆け付けようとも考えましたが、気が付けば道路も大渋滞を起こしていました。バイクにまたがり、必要そうな物(いったい何が必要なの?)をリュックに詰め、神戸に向けて道路を走りました。渋滞に巻き込まれた消防車や救急車を何台追い抜きながら走ったことでしょう・・・。大災害時に車で移動するという事に対しては、よく考える必要があると思います。
風化する震災
あれだけの災害であっても、震災は確実に風化しています。
今年は2025年、震災から30年が経ちました。1995年は戦後50年で、今年は戦後80年でもあります。時がたてば戦争も震災も、経験を語ることができる人たちは減っていきます。今年で終戦当時20歳だった人は100歳に、震災当時20歳だった人は50歳になります。この30年で戦争の実体験を語ることができる人がどんどん減っていったのと同じように、ふと気が付けば震災体験を語ることができる人もかなり少数派になってしまっています。
震災後の5年ぐらいまでには書籍や映像の形ではたくさんの情報が発信されていました。それらももうずいぶん古ぼけしまっています。アナログの映像はもはや再生する機械がありません。2010年辺りまではネット上に組織的に、あるいは個人的に情報を発信しているサイトも見られることができましたが、最近は検索をかけても以前ほど引っかからなくなってきています。サイトの移動や閉鎖の影響があるのでしょうか。
そんな中、アジアンドキュメンタリーズはとても鮮明な映像をアーカイブして下さっています。内容もよくまとまっていて全体像が分かると思いますので、ご参照ください。現在のところ、無料で配信して下さっています。
忘れてしまえるのは平穏な現在がある証拠だし、あんなひどい経験を何度も何度も思い出したくはないです。その一方で、教員という仕事についていることもあって、風化させてはいけないという気持ちもあります。教育現場で阪神淡路大震災は語り継がれてゆくべき大きな出来事です。
複雑な胸中
震災という大自然の脅威に対して教員や学校組織ができることは限られていました。震災によって発生した大量の課題に対応するだけの判断力やマンパワー・経験力は神戸市中で圧倒的に不足していました。アドレナリンが出っぱなしになって、何とかしなくてはと頑張るものの、気持ちは空回りするばかり。一教員にできることには限界があることは当たり前です。それは頭では分かっているのですが、無力感を感じずにはいられませんでした。
当時を知る教員として阪神淡路大震災を語り継いでいかなければならないという気持ちはずっとあります。子供たちには具体的な事実や、助け合う事の必要性や助けてもらえた事のありがたさも伝えてゆきたいです。実際、総合的な学習の時間など、折に触れて伝えてはきました。しかし一方で、思い出したくないという気持ちも強いのです。思い出すことや語ることは大きなストレスです。
ある年、授業にゲストティーチャーとして震災でお子さんを亡くされた地域の方(Sさん)をお招きして、話をしてもらったことがあります。当時で震災から20年近くたっていましたが、言葉を継ぐのがとても難しくて辛いご様子でした。「しあわせ運べるように」という震災の事を歌った歌も、Sさんにとっては聴くのがつらくてそれまでは受け入れることができなかったそうです。その日の震災の集いに参加された事をきっかけに、やっと児童が歌うその歌を受け止めることができたとSさんは涙ながらにおっしゃられていました。
また、震災に関わることに時間を割くことに対して、残念に感じてしまう気持ちもありました。多くの物、人、時間を失いました。いつまでも震災に関わるのはマイナス方向な気がします。もうそういうのは避けたい。それよりも、前を向いて本業である教師としての仕事を全うすることで社会に対して貢献したいという気持ちもありました。
多かれ少なかれ、阪神淡路大震災後を語るとき、事者には複雑な気持がともないます。
記事を書くにあたって
阪神淡路大震災に関することを書くにあたって、
- あまり説明的にならなずに簡潔に書く。
- 全てを網羅しようと考えず(それは無理)、トピックで書く。
- 感謝の気持ちを中心に書く。・・・少しでも「ありがとう」が伝われば・・・。
- 亡くなられた方の具体的な話は書かない。・・・親戚家族、友人、受け持った児童が一人も亡くならなかった私がそれを書くのは違う気がします。(1つだけ、父の仕事仲間の話を書かせていただきました)
- 教育関係者はもちろんのこと、中学生から高学年ぐらいに伝えるつもりで書く。
などと、留意をしたつもりです。でも、実際はそのようにはなりませんでした。ご容赦ください。また、書いた文章にいったいどれほどの需要があるのかどうかは正直なところ分かりません。
この30年の間に何度かブログや当サイト「EDUPEDIA」に何らかの阪神淡路大震災の情報をアップして遺しておきたいと思ったことがあります。しかし、いざやろうと思い立っても立ち止まってしまい、書いたデータを全部消してしまった事もあります。私のつたない文章であの震災の事を綴ることにはかなり抵抗があります。
詳細を書き始めると頭に思い浮かぶことがとめどなくあり、その中から誰に向けて何を書けばよいのかわからなくなってしまいます。でも、もし需要があるのなら(あるのかなあ?)、必要な箇所を切り取って利用してくださってもけっこうです。何か、誰かに伝わるものがあれば、幸いです。
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