阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅵ ~子供たち

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「がんばって!」は、違うな・・・

震災当日、当時住んでいた大阪からバイクで大渋滞を抜けて何とか勤め先である本山南小学校に到着しました。東灘区の激震地です。校内を探し回っても、所せましと被災者が座り込んでいる状態で、自分の担任した子供たちがどこでどうしているのかがわかりませんでした(後で聞くと、損壊した自宅で過ごしたという子供もけっこういました)。廊下にもたくさんの人がいて、みんな疲れ果て、力尽きたという感じで下を向いてうなだれています。5人ぐらいの子供に会うことはできましたが、どの子も元気がなく、言葉数が少なくて会話になりませんでした。こちらとて、根掘り葉掘り今の状況を聞くわけにもいかず、何を話していいのかわからないので最後に「なんとか、がんばってな」と声をかけるのが精いっぱいです。そう言っておきながら、「こんなたいへんな時に『がんばって!』は違うか・・・。かけてあげる言葉もないなあ。」と、苦々しい気分になりました。

震災からいくらか時間がたってからも、あんなに大変な目にあったにもかかわらず、子供たちは震災についてあまり口にすることはなかったです。心が傷んでいたのでしょう。無理に聞き出すのも酷だと思って、自然に話し出した時に耳を傾けるようにしていました。

まずは、学校を再開して、少しでも日常の生活を取り戻さなければ。それが我々教師の使命だと思っていました。

学校再開へ

震災直後はどのようにして学校が再開していくのか、想像がつきませんでした。本当に再開できるのかどうかも、怪しかったです。学校どころか、神戸の街が消えてしまうのではないかとも思われるような惨状でした。自分の担当学年の子供たちの安否の確認がきちんとできたのはちょうど1週間を要しました。すでに親戚や知人宅に身を寄せていて校区にいないという家庭が多かったです。

一軒一軒の家庭の状況はつかめません。それでもとにかく学校を再開しなければならないと思って動き始められたのが10日後ぐらいでしょうか。教室は避難者の方々の生活の場となっていたため、はじめは運動場で青空教室を開きました。800人規模だったはずの学校なのに、最初に集まった子供は十数人程度。そこから少しずつ、少しずつ、人数が増えていきました。

1か月後には六甲アイランドにある向洋小学校に教室を間借りして勉強をさせてもらうことになりました。専用バスを出してもらって、児童・教員全員で通学です。

卒業式には体育館に避難されていた方々が一時的に式のために移動して下さり、ささやかながら門出を祝う式を開くことができました。

4月には戻ってくる子供たちもうんと増えて、教室や運動場に立ててもらった仮設校舎で本格的に授業を始めることができました。

・・・こうしてまとめてしまうと、何ということもない再開までの道のりに思えますが、着々と再開を果たしてゆく裏では、複雑なやりとりや業務が発生していたのです。行政・管理職・保護者・地域・ボランティアが子供たちを支えることに力を尽くしてくれたことがとても大きい力となっています。もちろん教員たちだって相当な業務を背負って苦労をしました。辛く長い日々でした。早期に学校再開を実現できたのは、校長が「学校の業務と被災地運営の業務を分ける。子供たちに関する業務を優先する」という方針を打ち立ててくれたことが大きいです。

学校を支えて下さった皆々様、ありがとうございました。

普通に過ごせる幸せ

私は震災時に5年生の担任であったため、4月からはほぼ自動的に6年生の担当をつとめることになりました。1月に大打撃を受けた後から、2学期の初めぐらいまでの間に少しずつ、少しずつ子供たちが戻ってきました。私は震災当日、子供に「がんばれ!」という言葉をかけてしまいましたが、考えてみれば大変な中をみんな頑張ってそこにいるわけです。4月に6年生の学年集会で

「先生はこんな状況でみんなに頑張れとは、言いません。頑張るかどうかは自分で決めてください。かげからみんなの活躍を応援したいと思います。」

と子供たちに話しました。みな神妙な顔をして話を聞いてくれました。

通常の学級で一旦出ていった子供が返ってきたならば、大きな話題になると思いますが、当時はみんなそれどころではなく、「おおっ、帰ってきたのか、お帰り!」くらいのあいさつで再開しました。誰が戻ってきても、震災体験がどうだったとか、避難先でどうしていたなどを聞くことはあまりしませんでした。以前のように「普通に学び、普通に一緒にいられることの幸せ」を感じられることを優先しました。

戻ってこられなかった子供たちも・・・

戻ってきた子供たちを十分に歓迎してあげられなかったことを後悔する気持ちはあります。しかしそれ以上に申し訳なかったと思うのは、戻ってこられなかった子供たちに対して十分なケアをしてあげられなかったことです。被害の状況など、家庭の事情があって戻ってこられなかった子供も少なくないのです。普通なら手紙を書いて上げるなり、送り出す会をしてあげたりするものですが、それができないまま卒業式を迎えることになりました。

体育館に避難していたH君も戻ってこられなかった子供の1人です。寒い体育館でインフルエンザにかかってしまったこともありました。「転校します」と言ってきたH君と別れの握手をした時、「元気でいてね」の他に何と言ってあげてよいのか、言葉につまってしまったことが今でも忘れられません。

過酷な状況の中で、「今、目の前にいる子供たち」の事で精一杯になってしまう自分が情けなく感じました。H君以外にも本山南小学校で卒業できなかった子供たちには何もしてあげられなかったなあ。いやいや、戻ってきた、戻ってこられなかったに関わらず、子供たちに対して色々と行き届かない点がは、本当に申し訳なかったと思います。

バースが教室に!

様々な支援を受ける中で、ビックリするような支援もありました。プロ野球の外国人選手OBがおおぜい集まって、本山南小学校を応援しに訪問してくれるというのです。校庭で全校での催しをした後、1クラスに1人、教室で給食と昼休みを共に過ごしてくれるという企画です。くじ引きで私はなんと、元阪神のバース選手を引き当ててしまいました。嬉しさと同時にうろたえてしまったことを覚えています()

さて、どうやってバース選手を迎えようか??普通なら学級会で話し合ってどのように貴重な時間を過ごすのかを考えるケースなのですが、それをする時間的・気持ち的な余裕がありません。

震災後は実に多くの方々が、被災地を訪ねてきては支援してくれました。温かい炊き出しは、腹にも胸にもしみました。神戸市に、あるいは本校に寄付をしてくださった方もたくさんいます。有名、無名に関わらず助けて下さった方々には感謝しかありません。そんな中、バース選手が来てくれた時だけ盛り上がろうとするのも何だかまずいような気がしました。色々と、当時の胸中は複雑だったのです。

それで結局、教室の掲示用に書写の時間に書かせた「バース」という字を貼るだけしか準備をせずに当日を迎えました。

教室にバース選手が入ってきた時にはものすごい歓声があがったものの、いざ給食が始まると、みんな表情が固まってシーンとしてしまいました。私も固まっています。給食中は食器にスプーンが当たる音だけが聞こえる状態でした。静まり返り過ぎた教室の中で私が片言英語でバース選手に何か話しかけると、全員の耳がそのやり取りに集中しているのがおかしかったです。

給食を片付けた後、急な私の思い付きで、バース選手に毛筆でサインをしてもらうことにしました。書道の道具を用意して、書いてもらったのが下の写真です。もっとちゃんと練習してもらってから、書いてもらったらよかったのに、こちらも気が動転していたのでぶっつけ本番になる流れになってしまい、とても細い字になってしまって申し訳なかったです。ついでにマジックで英語のサインも書いてもらったらよかったのに、それはすっかり忘れてしまっていました。

バース選手が帰った後、みんながホッとした顔をして「先生、もおぉぉぉぉ、滅茶苦茶緊張したわーーー!」と言っていたのがおかしかったです。震災後の厳しい一年の中で、うれし、おかし、楽しの思い出です。

震災を経て

1994年にはもう「学級崩壊」という言葉が誕生していたそうで、「小学校の荒れ」が目立つようになり始めていました。当時「何だか、教育現場が怪しい感じに状況になってきたなあ。本山南の高学年もやばいで」と、立ち飲み屋で同僚と話していたのを覚えています。
私が担当していた5年生も、思春期の生意気盛りの言動が目につき始めていました。

そんなところに、地震です。

多くの関西人が「そろそろ関東には大きな地震が来るのかな」程度の認識の中で起きた地震です。後になってクラスで「地震が来た時に机の下に入ることができた人っているの?」と聞いたところ、入れた子供は1人だけでした。「親がかぶさって自分を守ってくれた」と言っていた子供もいました。

あれほど「生と死」に直面して、考えさせられる体験はそうそうないと思います。

子供たちは普通の一日一日を普通に過ごすことができる大切さを改めて感じていたのだと思います。行事も授業も思い通りには進められない中でも、良く辛抱して頑張ってくれました。私は掃除の時間には毎回、運動場の修復のために教室を空けていました。倉庫用のテントや仮設教室が建てられた後で荒れた運動場を少しずつ元に戻していました。
作業が終わって教室に戻ると、教室の掃除は子供たちだけできちんと仕上がっていました。1年間、注意をする機会はあまりありませんでした。音楽の時間など教室を移動する際にも、私が車いすの子供に付き添っていたので、子供たちは自分たちでさっさと準備をして騒ぐこともなく行動してくれていました。給食などもとどこおりなく進めてくれます。

その他にもいろいろと手が回らなかった事が多々ある中、卒業までの1年と約2カ月を和気あいあいと過ごせたことは、立派だったと思います。我々教師陣が手が回らなくなっていることを分かってくれていて、気を遣ってくれたのだと思います。
3
年生・5年生・6年生と担任を受け持った子供たちです。5年生の3学期がほぼ抜けてしまったような形になってしまいました。3年生の時には本当にハチャメチャだった彼ら。5年生ではけっこうまずい空気が漂い始めていました。つらい体験を経て、本当に大切にしなければならないことが何なのかを考え直す機会になったのだろうと思います。示し合わせたわけでもないけれど、毎日を大切にしようとする想いを共有していたのだと思います。

卒業式も忘れられない、特別なものとなりました(卒業式の事は言葉にはせず、胸にしまっておきますが)。

1995年度卒業生の皆さん、ありがとうね。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 新聞記事の写真、めっちゃ懐かしいです!
    歓迎のセレモニーでバースに花束を渡す大役を務めたのは今でもプチ自慢です(笑)
    書道やりましたね!!!
    先生、あの時の書道、急な思い付きやったんですね(笑)
    震災があって、新学期は仮設教室で授業が始まって、1人また1人と同級生が神戸に帰ってきて。嬉しかったなぁ。
    不便なことももちろんあったけれど、楽しい学校生活を過ごせたのは、優しい先生方と、見守って支えてくれた親や地域の皆さんのおかげです!
    ありがとうございました!

    • 榎本さん、強くて優しいリーダーとしてクラスを支えてくれました。感謝しています。

      3・5・6年生とあの学年を担任して、震災の影響は苦しかったけれど、幸せな3年間でした。
      何とか卒業までこぎ着けることができたのは、あの学年の子供たちを含め、たくさんの人たちに支えてもらえたお陰です。

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