大混乱
震災直後はもちろん、その後の2週間ぐらいまで、当時私が勤めていた本山南小学校には避難されてきた方々があふれかえり、大混乱が続いていました。1日目に避難してきた被災者が何人いたのかは不明なのですが(誰も数える人などいない)、2000人近くいたとも言われています。
ボランティアが集まり始めるまでの1週間ほどは忙しすぎたし気持ちが高ぶっていたので、ものすごい量の出来事と仕事量がありました。思い出せることは少ないです。
とうてい数が足らない救援物資をいったい誰が公平に配るのか?
学校に来ている人だけに救援物資を配っていいのか?配るとしてそのお知らせをどうするのか?
水が流れないトイレの掃除は誰がするのか?
親戚の安否がわからずに訪ねてこられる方々に誰が対応するのか?
様々な問い合わせや要望にどう対処するのか?
こんな状況で学校は再開できるのか??
避難場所である学校にはその他にもこまごまとした諸々の課題がのしかかってきます。
教員だって被災した身です。まさか震災で自宅がメチャクチャになった上に職場である学校までこんな状態になるなんて。3連休前(震災は3連休が明けた朝に起こりました)には子供たちと勉強していたはずの部屋に、疲れ切った被災者の方々が座り込んだり、横たわったりしています。教室や体育館に入れなかった人は廊下で過ごしていました。教室・体育館には長半紙に書いた書初めが掲示されたままです。ありえない光景です。何から何までどうしたらいいのか分からず、学校としてはもうお手上げの状態でした。
トイレが・・・
震災当日の夜、私は両親が避難している長田区の長楽小学校の廊下で寒さにこごえながら夜を過ごしました。その日私は自分が住んでいた大阪から、バイクに乗って職場のある本山小学校と両親の住む長田の町へと向かいました。激震地である東灘区から長田区までを通り抜けました。途中で見た景色はまさに地獄。夜の三宮駅前、普段は街明かりできらびやかな通りが真っ暗になっていました。不気味な静けさの中、ビルは崩れかかっており、人も車も全く見かけません。兵庫区・長田区に近づくと、暗い空が炎で赤く照らされています。「いったい、自分は生きて帰れるのだろうか」とさえ思いました。
緊張しっぱなしであったため、何とか両親に会うことができた安心感からか、急におなかが痛くなってトイレに行きたくなりました。「トイレに行ってくるわ」と言うと、母が「我慢できるなら、やめておき。トイレは大変なことになっているから。」と引き止めます。なんとか我慢をして一夜を過ごしました。
どこの避難所もそうだったらしいです。後で教頭から聞いた話ですが、本山南小学校のトイレも大変なことになっていたそうです。なんせ、地震で水道はストップしていてトイレの水は流れません。屋上のタンクなど、あっという間に空になってしまいます。2000人近くの人数で限られた数のトイレを使うわけです。流れない便の上にさら便を重ねることになってしまいました。恐怖とストレスでおなかを下していたひとも多かったそうです。最後には中腰になって用便をしなければならない状況になったそうです。
地震で水道も電気もストップしています。灯りがつかない中で、懐中電灯だけを頼りに足の踏み場もないほど汚れているトイレで用を達するところを想像してみてください。
「あまりにひどい。なんとかして欲しい。」
苦情の声が出ても、早朝の地震から激しいストレスや寒さにさらされて、みな疲れ果てています。そんな時に真っ暗な中で、トイレの掃除をしたい人は誰もいません。見ず知らずの人たちの便で汚れまくったトイレです。
そうこうしているうちに、
「こんなひどい地震が起こってたくさんの人たちが亡くなられている。自分たちは幸運にも命が助かった。死ぬことを思えばトイレ掃除ぐらいなんでもない!」
暗闇の中での作業はうまくいかず、最後はもう素手で便をすくい取って掃除をしてくれたそうです。
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