水木のおじさん
父の仕事仲間に、私が「水木のおじさん」とよんでいた方がいて、多分、水木のおじさんは兵庫区の水木通という辺りで工場をいとなんでおられたのだと思います。神戸市の中でも長田区・兵庫区は工業がさかんな街で、同業者が連携して助け合いながら仕事をしているという感じでした。人情の街です。水木のおじさんはなぜか父の外出中に家に来ることが多くて、「お父さん、今、出かけています」と私が対応すると、「あっ、そう。」と言って何も伝言を言い残すこともなく立ち去ってしまいます。
私の父も長田区で町工場をしていましたので、そこには威勢のいいオッチャンがよく出入りしていました。その中で、水木のおじさんはとても物静かで、物静かということぐらいしか私の印象に残っているものがありませんでした。私の父も物静かな人だったので、子供ながらもいったい父と水木のおじさんは2人で何か話すことがあるのかと不思議な気がしていました。
父がポツリ、ポツリと
阪神淡路大震災の年(1995年)は戦後50年の年でもありました。父は終戦時に15歳で、神戸大空襲も経験しています。神戸の街は2度も廃墟となっているのです。たいへんな災害を2度も経験しているに、戦争の話も震災の話も私にあまり話すことがありませんでした。普段から、つらいことがあっても人には言わずに我慢する物静かな人でした。
その父が震災から3年程がたってから、急にポツリ、ポツリと話をし始めました。
「水木のおじさんって、おぼえているやろ・・・」
迫る炎
水木のおじさんは、震災で済んでいた家が倒壊し倒壊した家の中に閉じ込められてしまいました。阪神淡路大震災では、建物の倒壊や家具が倒れたことによって亡くなられた方が大多数です。ところが、水木のおじさんは家が倒れた時に亡くなられたわけではありません。
地震発生が5時46分です。まだ外は真っ暗な上に電気・電話・ガス・水道といったライフラインがすべてストップしています。冬空の下、とんでもない揺れに襲われた恐怖と変わり果てた町の様子にみんながしばらく唖然としていたのもつかの間、家具や建物の下敷きになった家族の助ける悲痛な声が響き渡っています。
水木のおじさんは外からは姿が見えないものの、崩れた家の中で何かに体がはさまれているわけではなく、動ける状態だったそうです。家は倒れたものの、隙間があったために押しつぶされずに生きておられたのです。普通ならすぐにでも救助されるべき状態なのです。
しかし、神戸市中で助けを求める人の声がする状態です。救急隊はとてもではないけれど手が回りません。近所の人たちで助けようとしたものの、のこぎりもスコップも家が倒れて埋まってしまっています。重い屋根が落ちているような家の中から人を助け出す手段はありませんでした。
近所の人たちが何とかして、水木のおじさんを助けようとしている事は水木のおじさんにも伝わります。しかし、どうにもなりません。水木のおじさんの声はずっと聞こえるし、脱出をしようと試みている物音も聞こえてきます。それでも、どうにもなりません。助ける手段が見つからないまま、時間だけが過ぎていきます。
そうこうしているうちに、神戸市中で火災が発生し、広がり始めていました。
長田区や兵庫区は下町で木造住宅が多かったせいもあり、火が燃え移るスピードが速かったようです。水木のおじさんが閉じ込められている場所にもじわじわと炎が迫ってきています。
猛火に包まれる
火を消し止めたかったのはみな同じです。家が倒れたこともショックですが、その上にそこに埋まっているものまで燃えてしまうのはどうしても避けたい。埋まっているのはものだけではなく、人もです。水木のおじさんは声まで聞こえていて、まだ生きているのです。
どうにかしてあげたい気持ちがあってもとうに水は尽きています。神戸市中で断水が起こっていました。あたり一面が、様々などうにもならない状況に陥っていました。町が猛火に包まれていきます。炎と煙に巻かれそうになる中、近所の人たちもその場にい続けることの限界が見えてきます。
そんな時、閉じ込められた家の中からは、水木のおじさんの叫ぶ声が聞こえてきました。
「もういいよ、みんな。ありがとう。みんな、あぶないから、もう行って。ありがとう、ありがとう。もういいから、行ってくれ!」
近所の人たちもなすすべもなく、「ごめんな、ごめんな」「すまんな」と口々に言い、「ありがとう」と「ごめんな」のやりとりが続きます。
しばらくしてから、みんなは泣きながら手を合わせ、その場を離れたそうです。
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以上、父の話を思い出し、まとめて、補足もしながら書いてみました。父は私にこれを話し出すのに3年を要しました。時々唇をかみしめながら。私はうんうんと、聞いていただけです。
私も震災を振り返る授業で何度か水木のおじさんの事を話そうとしたのだけれど、つらくて話すことができませんでした。30年が過ぎようとする節目なので、ここに記しておきたいと思います。
震災の犠牲となった方々のご冥福を、心からお祈りします。
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