ジュースを、どうする?
震災2日目の朝方に、校長室で私は教頭と顔を見合わせて絶句していました。
校長室の隅には、ケースに入ったジュースが置かれていました。多分、行政からの支援物資だったと思います。「教職員が配ってね」という事でしょう。数えてはいませんが、おそらく200本ぐらいのジュースです。その時点で私が勤務する本山南小学校に何人の方が避難していたのかは全く不明でした。こんな時に何人が避難しているのかなんて、数える人はいません。2000人、それ以上という説もあります。運動場に車を止めて、震災当日の夜を過ごした人たちもいます。
「これ・・・・・・・・・・どうします?」
大混乱の中、ジュースを届けてくれたことに感謝はするものの、数が全くたりない事は一目瞭然です。そして、このジュースについてどういうお知らせ(いつ、どこで、どういうルールで誰を対象に配るのか)をして、どう平等に配ればよいのかなんて誰にもわからないこともまた、明白でした。私とて丸1日ぐらい水分をとっていません。絶対にけんかになり、配った者は必ず非難をうけるでしょう。お知らせをするにも放送機器は壊れているし、それ以前に電気がストップしています。学校に避難している人だけに配れば学校以外の場所に避難している人が怒るだろうし・・・
「とりあえず、ここ(校長室)に置いておきましょうか」
どちらが言い出したか分からないですが、そういうことになりました。ジュースがその後どうなったのか、私は知りません。
校長室の隅に置かれたジュースのケースは、その先に待っていた苦難のイメージと重なって、強く私の心に残っています。
「こんな時の平等って??」「こんな時の優先順位って??」「絶対に今後、様々な業務が降りかかってくる。」「教員の立ち位置が悪すぎる・・・」
震災当日の大混乱で、すでに果てしなく思考のキャパオーバー状態になってしまっていました。この先、震災当日とはまた違ったタイプの、たいへんな苦難が続くのだろうなという予感が頭をよぎります。
学校とボランティア
教員の仕事はその性質上、非常時でなくてもボランティア的な業務に陥りがちな傾向があります。仕事とボランティアの境目がわからなくなり、過剰な献身に陥るケースが良くあります。分かりやすい例は中学校の部活動で、労働時間外(土日含む)をほぼ無給で働かざるを得ない現実があります。数十日の連続出勤とかも。
骨身を削って献身的に働くということは美しいと思う一方で、「無限に骨身を削ることなんて不可能だよ」という思いもあります。揺れ動く心を持ちながら、働いているのです。
大災害に見舞われた「非常時」の学校の立ち位置はなかなか難しいものがありました。避難所となった多くの学校で、教員がボランティアとして過剰に働くことを余儀なくされたケースも多かったと聞きました。震災直後は仕方なかったかもしれませんが、長い期間、ボランティア的な労働に縛られるというのは厳しいです。職員の中にもかなりしんどい被災状況であった方もいました。避難所運営の仕事が、本務である「学校再開」や「子供たちへのケア」に支障をきたすようではまずいのです。
職務の性質上、教職員は「無限に存在する仕事」を突き付けられることに対して退職か休職をするしか逃げ場がありません。学校という場において「正しい事」は多様であり、かつ、膨大です。教員の休職者が多いのは、『正論』を強く、無限に突き付けられたときに逃げ場がないからです。
例えば震災時であれば、「救援物資は平等に配って!!」と言われても、そんなタスクを完璧にこなすには、無限の労力が必要になります。
もう少し具体的に言うと、救援物資を「学校に寝泊まりしている人だけに配るのか!」「せっかく救援でいただいた食べ物が余ったからと言って、残飯として捨てるのか!」などというクレームにはどうにも対応ができません。正論と言えば正論なのですが・・・。食料に関しては、不平等が出ないように「余るように持って行く」「余るように(炊き出しを)作る」が救援のセオリーなのです。
非常時にはそうした「無理な要望」が出されがちです。避難所に集まっているのは「元々はお互いに特に何かゆかりがあるわけでもない大勢の方々」であり、連絡や調整や決議といった人々が納得する状況を作ることがとても難しいです。
それに比べると、ボランティアは「もう嫌だから今日で辞めます」という非常手段に出られる強みがあります。様々な要望をしてくる側もそこは腰が引ける所ですし、無償でやってくれているのだから遠慮しないといけないという気持ちも働きます。ボランティアがそうした性質を備えていたことで、「学校」と「要望を出す側≒被災者の方々・行政」の緩衝地帯・防波堤となって耐えてくれた側面は大いにあると思います。矢面に立ってくれて、本当に助かりました。
ちなみに、余った食べ物についてボランティアは、国道2号線や43号線にまで運んで行って、信号待ちのトラックなどに配ってくれていたそうです(感謝!)。
震災時の本山南小学校の校長は震災直後の大混乱がひと段落着いた時期に、「学校の業務と被災地運営の業務を分ける。子供たちに関する業務を優先する。」という方針を打ち出して、避難所のリーダーやボランティアのリーダーに伝えてくれました。それは職員を守ることとなり、ひいては子供たちのケアと早期の学校再開にもつながっていきました。この方針を受け入れて下さった避難所のリーダー、ボランティアのリーダーには感謝しています。そしてあの頃、本山南小学校に集っていた被災者の方々に理解していただけたことにも、感謝しています。
同時に、それはボランティアの方々に膨大な仕事を押し付けたような形になってしまって、後味の悪さもあり、今でも胸の中にしこりが残っています。
非常時のリーダー
2011年の東日本大震災の際には、児童生徒が学校にいる時間帯に地震が発生しました。保護者の安否が分からない児童、あるいは保護者を亡くして行き場がない児童が多数発生してしまったのです。そのため、教員は道義上児童と長く学校にとどまらなければならないようになったというケースがかなりあったと聞きます。自分の家族の安否を確かめることもできずに、不安で泣き叫ぶ子供たちと数日間学校に籠ったという話もあります。教員にしても家族の安否確認ができず、かなり厳しい現実があったそうです。
今の教育現場でも、非常時に学校・教職員がどのように対応するルールになっていて(防災司令等)、そのルールが現実的にどのように運用されるのかという事を理解できている教員は少ないと思います。災害が多い日本という国で、非常時に学校がどのように立ち振る舞うのかという課題は未だあいまいな部分が多いです。
教職員が自分たちの非常時の対応に関する情報を共有し、知恵と覚悟を備えておくことが必要なのではないでしょうか・・・。
震災時に本山南小学校の校長であった佐伯校長は、前述したように「学校の業務と被災地運営の業務を分ける。子供たちに関する業務を優先する。」という方針を打ち立て、職員が避難所運営に巻き込まれ過ぎないように取り計らってくれました。アグレッシブな判断だったと思います。
非常時にリーダーシップをとり、様々な局面で矢面に立つというのは、それはそれは、大変なことだったと思います。校長ははっきりとものをおっしゃられるタイプだったので、中には校長の方針に対するバッシングもあったようですが・・・。様々な価値観、多種多様な要望、大勢の人のいら立ちにさらされる毎日に、心労も重なったことと思います。
また、校長は震災の朝に電話がつながり、とにかく学校に行こうと気がはやる私に、「地獄や。来るな、」と意外な言葉でブレーキをかけてくれました。そのおかげで私は少し冷静になり、テレビで被災の状況を確かめ(本当に地獄)、被災した両親からの電話連絡も待つことができ、車の大渋滞情報も得て、簡単とは言え準備ができてから被災地に向かうことができました。
佐伯校長、ありがとうございました。
また、本山南小学校では、被災された住民の中から「私、がんばります」と、手を上げて下さった方が何人かおられます。特に震災直後のカオスの中で立ち上がってくれたEさんの姿が忘れられません。
ありがたくて勇気づけられる一方で、
「えぇぇ・・・この方、お子さんもいてお家もたいへんなことになっていると聞いたんだけれど・・・」
と、かなり心配になったのを覚えています。
震災後の1カ月ぐらいはがっくりして立ち上がれない被災者が多かったですが、一人、また一人と避難所の運営に立ち上がってくれる人が出てきたのは、Eさんたちが骨身を削って頑張ってくださったおかげだと思います。
Eさん、ありがとうございました。
変化に弱い学校
「都市部の町」という地域の特殊性もあり、「元々はお互いに特に何かゆかりがあるわけでもない大勢の方々」が本山南小学校に居合わせていました。地域の方々、保護者と児童、ボランティア、行政関係の方・・・。特に震災直後からの3か月は事情も価値観も違う人々への対応をするのが大変でした。
元々、学校は「村社会」と言われるように、閉鎖的・保守的で変化に弱い部分がたくさんあります。子供たちに「チャレンジ、チャレンジ!」とかよく言う割に、自分たちはあまり新しいことにチャレンジしません(今もそうです)。震災がもたらした急激な状況の変化に対応するようなことはかなり学校が苦手とする分野なのです。震災を通して、自分が所属する学校という組織に対して、とても歯痒い思い、残念な気持ちが浮き彫りになりました。
1996年辺りから神戸の小学校は落ち着く暇もなく学級崩壊という方向へと進んで行くことになります。
いや、神戸だけの話ではなく、全国の小学校で同時的に教育現場は変化し、崩壊が広がってゆきました。その混乱ぶりは非常時の学校で感じた困難や困惑と、ある意味、相似形をしているように思えます。今の学校は様々な価値観、多種多様な要望、大勢の人のいら立ちにさらされ続けて混乱し続けています。震災とは違った要因ですが、学級崩壊、モンスターペアレンツ、感染症、教員不足等々・・・正論で責められるのは、とてもつらいです。難しい課題を前にして「無賃で無限の労働をもって対応しがちな学校の体質」は、震災時とあまり変わっておらず、苦戦を強いられています。
「学校」は、変わることができるのでしょうか。
関連記事(阪神淡路大震災)
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅰ ~突然失われた日常 | EDUPEDIA
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅱ ~トイレが、、、 | EDUPEDIA
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅲ ~救援物資・寄付 | EDUPEDIA
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅳ ~ボランティアが来てくれた | EDUPEDIA
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅴ ~震災と学校 | EDUPEDIA
阪神淡路大震災と「ありがとう」Ⅵ ~子供たち | EDUPEDIA
コメント